8月15日(火)×楽しい旅行でした

今日は朝7時に起きて下だけ着替えてご飯が部屋に来るので来るまで帰る支度をしていました

ご飯を食べて化粧をしたり上だけ着替えて帰る支度してロビーに降りて足りないお土産を買って抹茶が飲める券を持っていたので抹茶を飲んで飲み終わってから車に乗ってお母さんが神社を回りた行ったのでお母さんだけ歩いて神社に行っている間、私達は車でうろうろしながら途中で寝ていました私が途中で起きたらもう高速に乗っていてお母さんに私シートベルトをやってないって言ったら途中にあるサービスエリアに寄ってトイレに行ったので車に乗ってシートベルトしまた

車に乗って今度は違うサービスエリアに寄って昼ご飯にざるそばを食べてからまた車に乗ってシートベルトをして帰りました

兵庫はすごく楽しかったし関西方面にはまた行きたいです

夜はお土産を仕分けして片付けたりしたわぁ(~o~)お土産が凄かったカラ早くあげて部屋をすっきりさせたいわぁ早く送らないとアカンつは送って手渡しが出来る人は手渡しするでぇ(^0_0^)早く片付けたいわぁ

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札幌学院のお歴、私と同じ横浜市の幼稚園を卒園した小室圭さんが来月3日に婚約会見します。ぜひとも眞子さまとの会見をご覧ください。

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NO422トリコロール/青の愛58点

トリコロール/青の愛TroisCouleurs:Bleuは、1993年製作の映画。クシシュトフキェシロフスキ監督によるトリコロール3部作の1作目。

1993年9月の第50回ェネツィア国際映画祭では、最高賞である金獅子賞のほか女優賞ジュリエットビノシュと撮影賞を受賞した。第19回1993年度セザール賞では主演女優ジュリエットビノシュ音楽編集の3部門を受賞した。

また、第51回1993年度ゴールデングローブ賞では、主演女優賞ドラマ部門作曲賞外国語映画賞にノミネートされた。

トリコロール3部作は、それぞれの作品が自由青平等白博愛赤を象徴しており、本作は青の愛過去の愛からの自由をテーマとしている。ウィキペディアより

高名な作曲家の夫と幼い娘を交通事故で一度に亡くし、自らも重傷を負ったジュリーは退院後、郊外の家と家財道具一式、さらには夫が遺した未完の楽譜も処分してしまう。ある夜ジュリーは、亡夫の同僚で、彼女に想いを寄せていたオリィエを呼び出し、一夜だけ愛し合った後、パリへと去る。久の一人暮らしの中で出会う、様な人間模様。しかし静かな日の中でも、夫が未完のまま遺した欧州統合のための協奏曲の旋律が、どうしてもジュリーの頭によみがえってしまう。そんなある日、処分したはずの夫の未完の楽譜の写しをオリィエが持っており、彼がその協奏曲を完成させようとしているのを知る。そして、夫が見知らぬ若い女性と共に写っている写真も公開されていて。ウィキペディアより

過去の愛からの自由か。なんかナルシスト向けの映画だな。気高くスマートで美しくだな。あんまり心動かされる作品じゃなかった。

忘れられない時代を、掘り返してみました!

2・3日前のNHKTVで、敗戦孤児のルポをやってました。

学童疎開で、親と離れ離れにされ、親は空襲で焼死して、残された孤児は、親戚や他人のあちこちをたらい回しにされ、冷たくされて行き場を失い、行き着いたところが上野の

地下道だったと!

不潔な地下道生活で、体中に皮膚病が広がって、疥癬とか虱(シラミ)とか…

悲惨な状態だったそうです。

もちろん、食べるものは無く、飢えさらばえていたので、悲惨な健康状態だったとか!

戦の後、弱いもの、がどうしようもなく、時代に飲み込まれていった?

今、この飽食の時代に、私と同年代の時代を過ごした子どもが大勢いて、こんな少年・少女時代を送ったなんてこと、知らない人が多いでしょうね?

私は(幸い?)そういう目には遭遇しませんでしたが、一歩間違えたら、あの残留孤児の悲劇の世界が、身近にあったことを否定できない環境でした。

私は、現在の中国東北部長春市(旧満州国新京特別市)という所で、生まれました。

父は、建築技師でしたが、当時の2・3男対策の一環として、満州を第二の故郷とせざるを得ない環境だったようです。

それでも、農家の2・3男坊対策で、満州奥地に開拓民としておくられた一員ではなかったのは、我が家の幸せの、第1歩だったようです。

この方々の悲劇は、幼かった私の記憶に、今も残っています。

新京は美しい町でした。

侵略と責められようが、取り敢えずは日本人が新しい街を其処に造り上げたのは事実だったのです。

残念だったのは、その新しい街は、送り込まれた日本人のためだけだったということでしょうか?

中国人や韓国人(当時は、朝鮮人と言ってました)の学校は、窓ガラスも破れたまま、貧相な建物でした。

それに引き換え、私たち日本人の子どもが通った学校は、レンガ造り3階建ての立派な建物で、全館スチーム暖房が、冬の寒さから私たちを守ってくれました。

子どもだった私が、知ることもない、当時の現実だったのです。

先に書きましたが、私は、満州の新京で生まれました。

生まれてから、小学校の4年で日本に引き揚げてくるまで、父の仕事の関係で、奉天(現瀋陽)・哈爾賓・大連・蒙古の張家口(砂漠の入り口でした)そして新京と、転々とした生活でした。

どこに行っても、暖房が完備された家で、豊かな恵まれた生活を送っていたと、記憶しています。

ただし、これは、あの年の8月15日までのことです!

日本が第二次世界大戦敗戦国になった年の5月に、父はソ連満州の国境にある、孫呉の部隊に召集令状が来ました。

新京神社の宵宮祭りの夜でした。

出征する父を見送りに、母、弟、妹そして私の一家5人が、新京駅までの道を歩きました。

今でも、その日のことは私の記憶の中にしっかり残っています。

父の大きな手をしっかり握って、父の言葉を聞きました。

「お父さまは兵隊さんになるので、暫くはお家に帰って来れないんだよ。お前が、お父さまの代わりになって、お母さまのお手伝いをしてくれよ」

父が言った言葉も、私の記憶に存在しています。

当時の父は、36・7歳? 母は、まだ20代でした。

6月から、子どもだった私の耳にも、戦争の情報が聞こえてくることがありました。

当時私が住んでいたのは、新京市内の繁華街に近い街でしたが、近くには関東軍軍司令部があり家のすぐ前は、兵隊さんの派出事務所みたいなのがあって、大尉、中尉、少尉、曹長、軍曹などの士官や兵隊さんの、何人かがいつも常駐していました。

そこに、よく遊びに行っては、金平糖が入った乾パンの袋や、チョコレートなどを頂いたりしていました。

その頃は、そういうおやつが、店に出ていることが、少なくなっていましたので、頂いた時は嬉しくって、家に持ち帰って、弟や妹に分けて、おやつにしたりしたものです。

その事務所の兵隊さんが、突然居なくなった数日後が、8月15日だったのです。

日本の軍隊が解散し、取り残された一般人は全くの丸腰状態です。

近所の日本人が集団になって、自分たちを守るしか、方法がなかったのです。

私たち日本人を憎む中国人、朝鮮人、そして、突然駐屯してきたソ連の兵隊。

時には、蒋介石率いる国府軍と、毛沢東率いる中国共産党八路軍が市街戦を始めたりしたのです。

窓ガラスに畳を立て掛け、銃弾が当たらないようにする大人の人達も真剣でした。

一時は、地下室で生活したこともありました。

後から聞いた話では、その地下室にはダイナマイトが仕掛けられていて、若し、ソ連兵が襲ってきたら、全員死のうという申し合わせがあったそうです。

そんな事は、夢にも知らない子どもたちは、4家族が一つの大家族になったことが嬉しくて、出入り口が裏庭のごみ箱だったのが珍しくって、大はしゃぎしたものでした。

その後、私たちの家族と、一緒に生活していた3家族との別れがありました。

私の妹が、結核性の腹膜炎に罹ってしまったのです。

日本に帰るのに、一般の引揚船では、妹がもたないから、病院船で帰るように。

その配慮も虚しく、妹は、引揚げの集団が出発する1週間前に、5歳の誕生日を前にして、亡くなりました。

コスモスが一杯咲いた野原で、妹の遺体を自分たちの手で焼きました。

運命が変わった8月15日!

その翌年、母、弟、私の3人は2か月の時間をかけて、日本に引き揚げてきました。

何よりも幸いだったのは、その年の12月、父が第1回の復員船に乗って、シベリアから復員してきたのです。

私の家は、妹の死という大きな犠牲を生みましたが、残った4人(父・母・弟・私)は、日本で生活することができました。

父は90歳、母は98歳までの長命を全うし、弟も私も元気に、老齢の日を送っています。

数多くの犠牲者を生み、数多くの不幸に襲われた人々に比べたら、信じられないくらいのラッキーな家族だったと思います。

それだから!

今、この年齢(81歳)になって、あの戦争が生み出した数々の悲劇を、忘れることができないのです。

私は、今、こうして、経過だけを書き連ねましたが、その裏には、悲惨な事実が沢山有り、幼かった私の心の中に、それらが、今も鮮やかに生きているのです。

内地で、空襲に遭った方々の苦しみも数多く有りました! 

同時に、外地で、守ってくれるものも無く、心細い思いをしてきた同胞が、どれだけ有ったことか?

これらのことを語り継ぐ人も少なくなってきている今、私の記憶がどれだけのものか? 

ちょっと書いてみたくなりました。

さっき駅前で見たけど自虐史観はもうやめ

さっき駅前で見たけど自虐史観はもうやめようって設置してゲリラ的なことしてる人たち居た。その通りだとは思ったけどなぜ皇居の方向を向いて黙祷?とも思った。日本人卑屈になり過ぎてもういい加減損しすぎだと思う